この記事はWealth Management in Japan - Strategy& PwCを参考文献として執筆されました。
日本に眠る個人資産を「働く資産」へ:ウェルスマネジメントの夜明け
日本には世界有数の個人資産が積み上がっていますが、その多くは低金利の預貯金として眠ったままです。平均寿命の伸長や社会構造の変化が進むにつれて、この「眠れる資産」を有効活用し、個人の将来不安や社会全体の課題を解決するウェルスマネジメントの重要性がかつてないほど高まっています。本記事では、変革期にある日本のウェルスマネジメント市場において、多様化する顧客ニーズへの対応、テクノロジーの活用、そして関連する様々なステークホルダーとの協調がいかに成功の鍵となるのかを探ります。目次
日本に眠る膨大な個人資産:失われた機会と高まる危機感
半世紀を超える歴史の中で、日本は世界でも類を見ないほどの豊かな個人資産を積み上げてきました。しかし、その巨額な資産の多くは、低金利の預貯金として静かに眠ったままです。時代の変遷と共に価値を増やす機会を逸しているこの状況は、単に個人の経済的な機会損失に留まりません。平均寿命の伸長により「人生100年時代」が現実となる中、退職後の生活資金不足という深刻な社会課題に直結しています。また、円滑な世代間資産移転が進まず、資産が有効活用されないまま「無駄な資産」として滞留してしまう可能性も無視できません。 なぜ、これほど多額の資金が「現金」として留まっているのでしょうか。その背景には、現代のニーズに合致した、顧客中心のウェルスマネジメントのソリューションが十分に普及していないことが挙げられます。資産運用の専門家による助言を受ける文化が根付きにくく、金融サービスが一部の富裕層に限定されている現状は、まさに「眠れる巨象」と呼ぶにふさわしい、日本の金融市場が抱える構造的な課題です。時代の潮目:構造変化がウェルスマネジメントを喫緊の課題へ
今日の日本社会は、過去数十年にわたる比較的安定した時代から、大きな構造変化の波に直面しています。新型コロナウイルスのパンデミックも、短期・中期的な経済への影響は免れませんでしたが、退職資金の不足や資産形成の必要性といった根本的な課題が消えたわけではありません。むしろ、以下の複合的な要因が、ウェルスマネジメントの必要性をかつてないほど高めています。- 平均寿命の伸長に対し、退職年齢や賃金の伸びが追いつかず、より長い老後生活資金を自己資金で賄う必要性が増大しています。
- 少子高齢化により労働人口が減少し、公的年金などの社会保障制度への圧力が強まっています。
- 特に若い世代の都市部への一極集中が進み、地方の資産が相対的に希薄化しています。
- 伝統的な「終身雇用」の概念が揺らぎ、転職が一般的になるにつれて、単一企業の退職金制度への依存だけでは十分な資産形成が難しくなっています。
- 既存の金融サービスは手数料やコミッションが高いにも関わらず、顧客が得られる価値が限定的であると感じられています。
- 多くの金融商品が顧客のニーズよりも「売る側」の都合で提供される「プロダクトプッシュ型」であり、顧客への適切な教育や長期的な視点でのサポートが不足しています。この結果、顧客が自身のニーズに合わない商品を選んでしまうリスクが高まっています。
プロダクトプッシュ型とは
顧客の個別のニーズよりも、商品やサービスを提供する側が、自社で売りたいものや利益率の高いものを積極的に顧客に勧める販売手法のことです。顧客視点ではなく、提供者視点での販売になりがちです。顧客像の再定義:富裕層だけではない、多様なニーズに応える
未来のウェルスマネジメントの顧客は、従来の「富裕層」という画一的な定義には収まりません。私たちは約3,600人の幅広い層への大規模な顧客調査を通じて、日本の市場には収益機会に繋がる8つの distinct な顧客セグメントが存在することを特定しました。そのうち3つのグループは、現在は積極的に投資を行っていないものの、適切な提案と環境があれば市場に参加する可能性を秘めた「魅力的な非投資家」です。 これらのセグメントは、年齢や資産額だけでなく、ライフステージや価値観、投資に対する態度によって多様なニーズを持っています。彼らの多くは、長期的な視野での資産形成に十分な資産を持ちながらも、金融商品そのものだけでなく、人生の目標達成に向けた広範なニーズ(住宅購入、子どもの教育、親の介護、相続など)を抱えています。そして、特筆すべきは、多くの人々が、こうした人生に関わる「助言」に対して対価を支払う意思があることが示されている点です。 また、社会的な側面から見過ごせない層として、変化する社会構造の中で経済的に困難を抱え、「金融難民」となりつつある人々も存在します。安定した収入や資産形成の機会に恵まれず、既存の金融サービスにアクセスしにくいこの層への対応も、社会全体で取り組むべき重要な課題です。ウェルスマネジメント業界のプレイヤーは、公共部門と協力し、この層の固有のニーズに応えるソリューション開発に取り組む機会があると言えるでしょう。ウェルスマネジメントとは
単に資産を運用するだけでなく、お客様一人ひとりの人生設計や目標を達成するために、資産の管理、運用、保全、相続など、お金に関する様々なことを総合的にサポートするサービスです。ペルソナとは
商品やサービスを利用する代表的な顧客像を、性別、年齢、職業、ライフスタイル、興味、価値観などを詳細に設定して、まるで実在する人物のように具体的に描いたものです。これにより、顧客のニーズをより深く理解することができます。成功への羅針盤:顧客中心モデルを支える6つの鍵
日本のウェルスマネジメント市場で成功を収めるためには、従来の「金融商品ありき」の考え方から脱却し、顧客を真ん中に据えたアプローチが不可欠です。私たちの分析では、成功するウェルスマネジメントビジネスが注力すべき6つの重要な領域が明らかになりました。1. 顧客の自信を育む:投資の「始まり」と「継続」を支援
多くの潜在顧客や既存投資家は、投資に対して漠然とした不安や複雑さを感じています。成功には、単に商品を提供するだけでなく、顧客が自信を持って投資の世界へ一歩を踏み出し、そして市場の変動に動じず長期的に投資を継続できるような、揺るぎない信頼関係の構築が不可欠です。定期的な積立投資の提案や、投資教育ウェビナーの開催、ポートフォリオ構築に関する情報提供など、行動経済学的な手法を取り入れた「続ける」をサポートする仕組みが重要になります。2. 人生の目標に寄り添う:「目標ベース」のパーソナルなアプローチ
顧客は、金融商品そのものよりも、それが自身の人生目標(住宅購入、子どもの教育資金、老後資金など)の達成にどう役立つかに関心があります。しかし、多くの人が目標達成に必要な具体的な金額を知りません。成功する事業者は、顧客の人生目標を明確にし、それに基づいた貯蓄・投資計画の策定を支援します。このアプローチには、非金融サービス(例えば、親の介護相談や、経営者のための事業承継支援など)との連携も含まれる可能性があります。3. 多様な「アドバイス」で顧客の意思決定をサポート
顧客は、自身の金融に関する意思決定において「助言」を求めています。特に潜在層は、金融商品そのものよりも、自身のライフゴールに関連する包括的なアドバイスを重視しています。対面だけでなく、デジタルツール、アルゴリズムを活用した提案、リモート相談など、顧客の利便性に合わせて多様な形式で質の高い助言を提供できるかが鍵となります。これにより、顧客は自分にとって最適な選択を行いやすくなります。4. 顧客体験全体を彩る「デジタル活用」の深化
顧客との継続的なコミュニケーションは、投資の継続に不可欠です。顧客は多様なチャネルでの連絡を望んでおり、その多くにデジタル技術が不可欠です。例えば、オンラインチャット、オンラインアップデート、進捗確認ツールなどが挙げられます。一方で、コミュニケーション頻度に関する期待は顧客によって異なります。成功する事業者は、顧客体験のあらゆる段階でデジタルを効果的に活用し、顧客とのエンゲージメントを維持しつつ、サービス提供コストを最適化するモデルを設計する必要があります。
行動経済学的な手法とは
人間は必ずしも論理的ではなく、感情や直感で判断することが多いという行動経済学の知見を活かし、人々が望ましい行動(ここでは長期投資の継続など)を自発的にとるように促すための、ちょっとした働きかけや仕組みのことです。5. 「価値交換」モデルの再構築:顧客と事業者のWin-Winを目指す
日本の金融市場は、手数料やコミッションが高く設定されがちで、それが顧客の投資成果と必ずしも連動していないという課題があります。顧客の多くは、自身の投資成果に連動した手数料体系を望んでいます。将来のウェルスマネジメントは、単なる商品販売手数料に依存するのではなく、顧客と事業者の双方が利益を享受できる「相互に有益な成果」に基づいた価値交換モデルへと移行する必要があります。顧客が支払う費用と得られる価値が明確に連動していることが、顧客満足度と信頼の向上に繋がります。6. 社会的責任を果たす:「金融リテラシー」の推進による基盤強化
ウェルスマネジメントに対する社会全体の態度を変え、より多くの人々が資産形成に前向きに取り組むためには、金融リテラシーの底上げが不可欠です。しかし、現状では金融に関する専門的な対話が十分に行われていません。多くの人々は、友人や家族との間で金融の話をすることが多く、必ずしも専門家から適切な情報を得ていません。プロアクティブに金融リテラシーに関する対話を推進し、顧客との間に揺るぎない信頼関係を構築できる事業者は、顧客からの紹介(リファーラル)を通じて成功する可能性が高まります。市場を拓く担い手たち:連携が生み出す大きな力
日本のウェルスマネジメント市場を活性化させるためには、金融サービスプレイヤーだけでなく、より幅広い関係者の協調が必要です。特に、雇用者と政府という非金融セクターの主要なステークホルダーが果たす役割は非常に大きいと言えます。金融サービスプレイヤー:既存の強みを戦略的に活かす
既存の金融機関は、長年培ってきた顧客関係やインフラを活かす大きな機会を持っています。それぞれの業態特性に応じた戦略が求められます。- 保険会社は、既存のエージェント網と顧客との保護に関する対話を足がかりに、エージェントのリスキリングを通じて金融計画の相談にも対応できるようになることで、より幅広い顧客ニーズに応えることが可能になります。
- 銀行は、貸付や税務、流動性ソリューションを含む「人生全体」、特に退職後を見据えた相談に注力し、行員の再教育と新たな能力開発に積極的に投資することで、顧客の人生に深く寄り添うパートナーとなれます。
- 地域銀行は、地域社会における強い存在感を活かし、個人顧客だけでなく中小企業の事業承継や資産移転に関するアドバイス提供者としての役割を強化することで、地域経済の活性化にも貢献できます。
- 証券会社は、既存の販売網と専門知識を活用しつつ、手数料体系の見直しや、税務・法務といった関連サービスとの連携を深めることで、顧客にとっての利便性と提供価値を高めることができます。
- 資産運用会社は、デジタルチャネルやダイレクトモデルを強化し、顧客との接点を増やしてより多くの価値を捉えることが重要です。これにより、運用会社が直接顧客の声を聞き、サービス改善に活かすことができます。
雇用者:従業員の経済的な未来をサポートする積極的な役割
日本の雇用者は、従業員への社会的な責任を強く認識しています。この責任を拡張し、従業員の金融リテラシー向上や資産形成支援を強化することは、単に従業員の福利厚生に留まらず、社会全体の課題解決にも繋がる、極めて重要な役割です。多くの職場ではまだ十分な取り組みがなされていませんが、以下の実践的なステップが考えられます。- ウェルスマネジメントプロバイダーと提携し、従業員向けの金融リテラシー向上プログラムを提供する。これは、従業員の経済的な安心感を高めることに繋がります。
- 新入社員研修に「マネーマネジメント」のセッションを組み込むことで、キャリアの初期段階から資産形成の重要性を啓蒙します。
- ボーナス支給時などに、企業型確定拠出年金への拠出額をわずかに引き上げるよう推奨するなど、行動経済学的な「ナッジ」を活用し、従業員の自発的な資産形成を促します。
- 従業員向けに、割引価格で独立系の金融アドバイスへアクセスできる機会を提供するなど、質の高い助言に触れる機会を設けます。
政府:長期的な視点に立った市場育成と環境整備
政府の役割は、単なる規制や監督に留まりません。市場全体の生態系を育み、国民の資産形成を促すための、より長期的で戦略的なアプローチが必要です。未来を見据えた政府の役割として、以下の点が重要となります。- 国内外のプレイヤーが革新的なウェルスマネジメントサービスを提供しやすい環境を整備し、NISAの拡充やiDeCo(個人型確定拠出年金)制度の強化など、需要を喚起する政策を推進します。
- 高校教育から社会人に至るまで、ライフステージに応じた継続的な金融リテラシー教育プログラムを支援することで、国民全体の金融知識向上を目指します。
- アドバイス産業の確立を支援するため、専門資格制度の導入、ロボアドバイザーなどデジタルを活用した助言手法への投資促進、顧客保護基準の設定などを進めることで、国民が安心して質の高いアドバイスを受けられる環境を整備します。

ナッジ(nudge)とは
人々が強制されることなく、自発的に望ましい行動をとるよう促すための、ちょっとした「後押し」や「きっかけ」のことです。例えば、「これをしたらお得ですよ」と提示したり、選択肢の並び順を変えたりすることで、人々が良い選択をしやすくなります。行動経済学という分野で研究されています。NISA(ニーサ)とは
Nippon Individual Savings Account(日本版ISA)の略称で、国が推奨する個人投資を支援する制度です。毎年決まった金額まで投資することができ、その投資で得られた利益(株の値上がり益や投資信託の分配金など)にかかる税金がゼロになります。資産を増やしやすくするための制度です。iDeCo(イデコ)とは
個人型確定拠出年金の愛称で、自分で掛金を出して運用し、将来受け取る年金を作る制度です。掛金は全額所得控除の対象になるなど、税金面で優遇されており、老後資金を準備するための有効な手段の一つです。ロボアドバイザーとは
ロボットアドバイザーの略で、人工知能(AI)やコンピューターのアルゴリズムを使って、お客様一人ひとりの年齢、収入、資産状況、投資の考え方などを分析し、最適な資産運用プランを提案したり、実際の運用を自動で行ったりするサービスです。「ロボアド」と略されることもあります。未来への変革を問い直す:眠れる巨象を覚醒させるために
なぜこれほど多額の個人資産が現金として滞留し、価値を生まないのか?そして、日本の人々は資産形成へと舵を切るのか?これは長年日本の金融市場を悩ませてきた問いです。私たちは、その大きな要因が、現代の多様なニーズに応える顧客中心のウェルスマネジメントソリューションの不足にあると考えます。 ウェルスマネジメントセクターの再構築は、個人の老後資金確保、円滑な世代間資産移転、新たな資金の流れ創出によるインフラ投資への貢献、金融サービス事業の多角化といった、社会的・経済的な大きな恩恵をもたらす可能性があります。まさに、日本に眠る「巨象」を覚醒させ、経済全体を活性化させる起爆剤となりうるのです。 この変革の波に乗り、新しい時代のウェルスマネジメントビジネスを追求しようとする既存プレイヤーや新規参入者は、自らに問いかけるべき重要な問いがあります。- 誰が私たちの「未来の顧客」となるのか?そして、その顧客が競合ではなく、自社を選ぶ「独自の提供価値(ユニークプロポジション)」は何なのか?
- 顧客中心のウェルスマネジメントを実現するために不可欠な、先述の6つの要素に、どのように応えていくのか?
- 新しいビジネスモデルにおいて、「デジタル技術」はどのような役割を果たすべきなのか?単なるツールに留まらない可能性とは?
- 既存の販売チャネルは、多様な顧客層へのアクセスに十分か?新たな顧客獲得チャネルをどう構築するのか?
- 多様な顧客ニーズに応えるための商品を、どのように効率的に調達、あるいは開発するのか?
- 単なるビジネスとしてだけでなく、社会的責任として、どのように国民全体の「金融リテラシー向上」に貢献していくのか?