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この記事の要約
2022年夏、フランスのル・マンで開催された国際サマースクール「MuHAS」は、音楽、人文科学、科学という異なる分野が交差する画期的な取り組みでした。ソルボンヌ大学と欧州音楽技術研究所(ITEMM)が主催し、楽器製作を共通テーマに、若手研究者が理論と実践を通して多分野の知を融合させた濃密な学びの場となりました。本記事では、このユニークなサマースクールの内容を掘り下げ、楽器の響きを巡る多角的な探求の様子をお伝えします。
2022年の夏、フランスの歴史的な街ル・マンにて、音楽の世界に新たな視点をもたらす画期的な取り組みが行われました。ソルボンヌ大学のコレギウム・ムジケと、欧州音楽技術研究所(ITEMM)が共同で開催した第1回国際サマースクール、「Music, Humanities, and Science: Instrument Making」、通称「MuHAS」です。
このサマースクールは、音楽研究、楽器製作、そして科学的な探求という、通常は別々に深く掘り下げられるこれらの分野を、楽器製作という共通のテーマのもとに融合させることを目指しました。若手研究者たちが、理論的な講義と実践的なワークショップを通して、多分野にわたる知識とスキルを習得するための貴重な機会となったのです。
わずか5日間の濃密なプログラムでしたが、参加者たちは音楽学、音響学、楽器製作、演奏実践といった多様な専門分野の垣根を越え、互いに刺激を受けながら学びを深めました。
コレギウム・ムジケとは
ソルボンヌ大学内の音楽に関連する学部や研究機関を結ぶネットワークです。
ITEMMとは
Institut Technologique Européen des Métiers de la Musiqueの略称で、楽器製作や修復など、音楽関連の技術者育成を専門とする欧州の機関です。
楽器製作を巡る知の融合:人文科学、科学、そして手仕事
MuHASサマースクールの根幹をなすのは、楽器製作への異分野横断的なアプローチです。楽器を単なる音を出す道具としてだけでなく、その誕生から現在に至るまでの歴史、社会や文化における役割、そして音響的な仕組みや構造に至るまで、多角的に理解しようと試みます。
特に今回は、撥弦楽器と管楽器という二つの主要なカテゴリーに焦点を当てました。人文科学的な視点(歴史、音楽学)と科学的な視点(音響学)に加え、実際に楽器に触れ、製作する「手仕事」の視点を組み合わせることで、音楽、音楽学、音響学、そして楽器製作が分かちがたく結びついていることが明らかになります。
このような統合的なアプローチから生まれる多様な問いを探求することで、参加者は楽器という一つの対象を通して、多分野の知がどのように連携し、新たな理解を生み出すのかを体験的に学ぶことができました。
音響学とは
音の発生から伝わり方、そして人が音を聞くまでの過程などを科学的に研究する学問です。楽器の音がどのように生まれるのかを解き明かす上で不可欠な分野です。
弦楽器ワークショップ:音色と演奏性を形作る要素を探る
弦楽器に焦点を当てたワークショップでは、参加者は簡略化された撥弦楽器の製作に挑戦しました。ギターや三味線、コラシオンといった様々な楽器から着想を得たものです。単に指示通りに作るのではなく、楽器の構造や素材(特に弦の選択)といった様々な側面を意図的に変更し、その変更が楽器の音色や演奏のしやすさにどのような影響を与えるかを評価しました。
これにより、楽器の作り手による設計や素材選びの判断が、最終的に生まれる「響き」や、演奏家が楽器とどのように関わるかに深く関わっていることを、肌で感じながら学ぶことができました。製作の視点と演奏の視点、そして音響的な評価を結びつける貴重な体験となりました。

三味線とは
日本の伝統的な弦楽器で、胴に張った皮の上に弦を張り、バチ(撥)と呼ばれる道具で弦を弾いて演奏します。
コラシオンとは
歴史的な撥弦楽器の一つで、スペインなどで使われた小型の弦楽器です。ギターなどの祖先の一つとも考えられています。
管楽器ワークショップ:発音の多様性と音響への影響
管楽器のワークショップでは、シンプルな円筒形の共鳴管を用いて、様々な発音の可能性を探求しました。フラジオレット、クラリネット、シャルモーといった異なるタイプの楽器の発音様式を再現したり、あるいはディジリドゥーのようなユニークな発音方法を試したりしました。
さらに、管の側面に開けられる指穴の位置や大きさ、そして「アンダーカッティング」(指穴の内側を広げる加工)が、楽器の音程や音色にどう影響するのかを実験を通じて学びました。こうした実践的な試みと、音響学的な原理を結びつけることで、管楽器の設計がいかに精妙なものかを理解することができました。
フラジオレットとは
リコーダーに似た構造を持つ小型の木管楽器です。
クラリネットとは
シングルリードを使用し、円筒形の管を持つ木管楽器です。
シャルモーとは
クラリネットの直接の先祖とされる、よりシンプルな構造のシングルリード楽器です。
ディジリドゥーとは
オーストラリアの先住民アボリジニの伝統楽器で、木の幹などを使った長い筒状の楽器です。唇を振動させて音を出します。
アンダーカッティングとは
管楽器の指穴の内側を斜めに広げる加工技術です。音程や音色をより細かく調整するために行われます。
歴史へのまなざしと音楽学の役割:楽器の物語を読み解く
楽器製作というテーマを深く掘り下げる上で、音楽学の視点は不可欠でした。歴史の中で楽器がどのように発展し、作曲家や演奏家がどのように楽器を用いてきたのかを探求しました。楽譜分析、楽器が描かれた絵画や彫刻などを研究する図像学、そして楽器そのものを研究する歴史的オルガノロジーといった手法が用いられました。
また、古い楽器の保存・修復に関わる課題や、博物館での楽器の展示(museography)や目録作成(catalography)といった実践的な問題も議論されました。早期音楽や、当時の演奏法を現代に蘇らせる歴史的演奏実践(Historically Informed Performance, HIP)も重要なテーマでした。さらに、地中海地域の伝統音楽や、過去100年間の音楽が楽器の音響やサウンドスケープ(音の風景)に与えた影響など、幅広い時代や地域の音楽と楽器の関係に光が当てられました。
図像学とは
絵画や彫刻、写本などに描かれた図像を分析し、その意味や文脈を読み解く学問です。歴史的な楽器がどのように使用され、どのような場で存在していたかを知る手がかりとなります。
歴史的オルガノロジーとは
過去に作られた楽器の構造、素材、製造技術などを研究する学問分野です。楽器の進化の過程や地域ごとの特徴などを明らかにします。
Historically Informed Performance (HIP) とは
歴史的に根拠のある演奏方法を探求し、実践することです。作曲当時の楽器や演奏技術、音楽様式などを可能な限り再現しようと試みます。
サウンドスケープとは
特定の場所や環境における音響的な風景や、音と人、環境の関係性を指す概念です。
専門家と参加者の響き渡る対話:ラウンドテーブルとデモンストレーション
MuHASサマースクールでは、一方的な講義だけでなく、参加者と専門家との活発な対話が奨励されました。特に、経験豊富な演奏家たちがワークショップやデモンストレーションに参加し、楽器、音楽スタイル、レパートリーの関係性について自身の視点を共有しました。彼らはまた、楽器製作者や音響学者、音楽学者といった他の専門家との関わりや、演奏における身体と楽器の関係性についても語りました。
プログラムの後半には、「楽器のクオリティとは何か?:客観的評価と主観的評価」と題されたラウンドテーブルが開催され、ミゲル・アンリ氏、クラウディア・フリッツ氏、ディミトリス・クントゥラス氏ら、様々な分野の専門家が登壇しました。ここでは、楽器の「良い音」や「良い楽器」といった評価が、科学的な測定だけでなく、演奏家の感覚や音楽的な文脈によってどのように異なるのかが議論されました。
また、ITEMMの施設やソルボンヌ大学の研究室(ENSIM)では、音響測定や音響イメージング、流速測定といった、楽器の音響特性を科学的に分析するためのデモンストレーションも行われました。参加者は、最新の技術が楽器研究にどのように応用されているのかを直接見ることができました。

参加者の顔ぶれ:多様な視点の出会い
MuHASサマースクールには、世界各地から様々なバックグラウンドを持つ若手研究者が集まりました。リストを見ると、ソルボンヌ大学を中心に、アムステルダム音楽院、ルーヴェン・カトリック大学、マギル大学、モントリオールの研究機関、ミラノ工科大学、チューリッヒ大学、ウィーン国立音楽大学、クイーンズ大学ベルファスト、マサリク大学、そしてリヨン第2大学など、多くの著名な大学や研究機関から参加者が訪れていました。
参加者の専門分野も多岐にわたり、音楽学、科学、哲学、そして音楽と科学の融合分野を学ぶPhD学生やポストドクトラル研究員が多く見られました。このような多様な参加者が集まることで、議論はより豊かになり、互いの専門分野に対する理解を深める貴重な機会となりました。
登壇した専門家たち:異分野の知を結集
サマースクールの成功は、各分野の第一線で活躍する錚々たる専門家たちの貢献抜きには語れません。リコーダー製作の世界で国際的に知られるフィリップ・ボルトン氏、音楽音響学研究のパイオニアであるエディンバラ大学のマレー・キャンベル名誉教授、フルート奏者であり音響研究者でもあるパトリシオ・デ・ラ・クアドラ氏らが、楽器の音響と製作の実践について深い洞察を提供しました。
また、「フランス最優秀職人(Meilleur ouvrier de France)」の称号を持つ高名なリュティエ、ジャン=マリー・フイユール氏、ヴァイオリンの音響と演奏家の動きの関係を科学的に分析するCNRS研究員クラウディア・フリッツ氏、ギターなどの楽器の音響を研究するフランソワ・ゴーティエ氏らは、楽器製作の技術と科学的な分析を結びつける最先端の研究を紹介しました。
音楽学の分野からは、図像学や楽器コレクション史の世界的権威であるフローレンス・ジェトロ氏、リュテニスト・作曲家として早期音楽演奏を牽引するミゲル・アンリ氏、早期音楽・地中海音楽の研究者でありリコーダー奏者のディミトリス・クントゥラス氏、20世紀・21世紀音楽の理論と分析を専門とするイヴォナ・リンステット氏、早期近代音楽理論史研究者のインガ・マイ・グローテ氏らが登壇し、楽器の歴史的・文化的・理論的な側面を多角的に論じました。
さらに、オルガノロジー専門家としてパリ音楽博物館の学芸員を務めるティエリー・マニゲ氏、音響学とオルガノロジーを研究し、特にエレキギターなどポピュラー音楽の楽器にも詳しいブノワ・ナヴァレ氏らが、楽器の分類、博物館における役割、そして録音技術との関連など、幅広い視点を提供しました。これらの専門家たちの知見が結集することで、プログラム全体が非常に豊かなものとなりました。
リュティエとは
ヴァイオリン、チェロ、ギターなどの弦楽器を製作したり修理したりする職人のことです。
開催地ル・マン:学びの合間に歴史と文化に触れる
MuHASサマースクールが開催されたのは、フランス西部ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏の主要都市、ル・マンです。プログラムの主な会場であるITEMMは市の郊外に位置していましたが、参加者の多くは市内のホテルに宿泊し、トラムを利用して移動しました。
限られた時間ではありましたが、参加者はル・マンの街を散策する機会も得られました。特に旧市街の「プランタジュネの街」は、中世の面影を残す石畳の小道、木骨組みの家々、そしてローマ時代の城壁に囲まれた魅力的なエリアです。街の中心にそびえ立つサン・ジュリアン大聖堂は、ロマネスク様式とゴシック様式が融合した壮大な建築物で、フランスでも有数の規模を誇ります。
サマースクールの期間中には、ル・マンの夏の風物詩である「ラ・ニュイ・デ・シメール(La Nuit des chimères)」という光の祭典が開催されていました。夜になると、大聖堂や城壁、旧市街の建物に美しいプロジェクションマッピングが映し出され、幻想的な光景が広がります。参加者は、楽器製作の深い探求に加えて、このようなル・マンならではの文化的な魅力も享受することができました。ITEMMの庭園でのビュッフェ・夕食会も、リラックスした雰囲気での交流の場となりました。

まとめ:響きが生み出す無限の可能性
第1回国際サマースクール「MuHAS」は、音楽、人文科学、科学という異なるレンズを通して楽器製作を深く探求する、非常に成功裏に終わった試みでした。参加者は、楽器が単なる物理的なオブジェクトではなく、歴史、文化、社会、そして物理学が複雑に絡み合った存在であることを、理論と実践の両面から学びました。
科学的な音響測定、歴史的な資料の読解、そして実際に手作業で楽器に触れる体験は、それぞれの分野の重要性と同時に、それらが連携することの力の大きさを参加者に示しました。経験豊富な専門家や、多様なバックグラウンドを持つ同世代の研究者たちとの対話は、参加者自身の研究や活動に新たな視点とインスピレーションを与えたことでしょう。
このサマースクールで培われた異分野間の協力と理解は、今後の音楽と科学の研究、そして未来の楽器製作の発展に繋がる重要な一歩となるはずです。楽器の「響き」を巡る探求は、これからも私たちの知的好奇心を刺激し続け、無限の可能性を広げていくことでしょう。
よくある質問
「MuHAS」サマースクールはどのようなイベントでしたか?
「Music, Humanities, and Science: Instrument Making」(MuHAS) サマースクールは、ソルボンヌ大学コレギウム・ムジケとITEMMが共同で開催した国際イベントです。音楽学、音響学、楽器製作、演奏実践といった多様な分野を、楽器製作というテーマのもとに融合させ、若手研究者の異分野横断的な学びを促進することを目指しました。